フォッセには「聴こえ」、兜太は「思いつく」
小松 敦
ノルウェーの作家ヨン・フォッセは、自分にとって書くとは聴くことだと言う。何の準備も計画も無しで、ただ聴く。
『だれか、来る』の解説によるとフォッセ曰く〈僕の頭の中で、考え出したことではなく、すでに存在している何かを聞き出して書く〉。『朝と夕』訳者あとがきには〈書くことは自己表出ではなく、むしろ自己離脱だ〉とフォッセの言葉が引かれている。2023年度ノーベル文学賞受賞記念講演ではフォッセ本人が「少し変かもしれませんが」と前置きして、「私の内側にはないので、そのテキストが消え去る前に書き留める必要があるという感覚を覚える」と、喩えを超えた生生しい体感を述べている。
もしも金子兜太がフォッセから「書くとは聴くことだ」と言われたら、まことに〈詩は肉体そのままのうぶな衝動〉ですな、と応じることだろう。
兜太は『今日の俳句』の中で、感銘に堪える俳句の核には〈詩〉が要る、〈詩〉は日常の生活の継起の中に訪れる。仕組まずにおののけと言う。〈詩の本質は叙情〉であり〈存在感の純粋衝動〉だと語るくだりで、〈純粋衝動〉に近いものとしてマックス・ウェーバーの〈思いつき〉に触れている。「思いつき」は日常の〈持続のなかで思考と感覚が累積してゆき、ある爆発点にきて、感情を刺激したときに行われる。刺激による感情の純粋反応が、いままでたまってきたものに、急に新しい組合せを与えたり、隠れていたものをダイナマイトのように露見させる〉そして、〈口ごもりつつ、ほんものの思いつきが誕生する〉と。
フォッセには「聴こえ」、兜太は「思いつく」。ついでにブルトンなら「オートマティスム」でベルクソンや大拙は「直観」し、芭蕉であれば「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし(土芳『三冊子』)」。〈自己離脱〉だなんてまるで「物となって考え、物となって行う」西田幾多郎だ。これだけ色んな人が似たようなことを言っているのだから、これらは決してスピリチュアルな「神の声」の話ではない。
ちなみに、ウェーバー・兜太の〈思いつき〉は、いずれも領域は異なるが、『アイディアのつくり方』(J・W・ヤング)や「計画的偶発性理論」(J・D・クランボルツ)に通じ、『制作へ』(上妻世海)の考察につながるだろう。
それにしても「ダイナマイト」は激しすぎる。実際はもっと静かだと思う。
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ご参考
ウェブサイト「じんぶん堂」2024.02.29〖全文公開〗ヨン・フォッセ ノーベル文学賞受賞記念講演「沈黙の言語」
https://book.asahi.com/jinbun/article/15181986
『だれか、来る』ヨン・フォッセ/河合純枝 訳/白水社2023年
『朝と夕』ヨン・フォッセ/伊達朱実 訳/国書刊行会2024年
『職業としての学問』マックス・ウェーバー/尾高邦雄 訳/岩波文庫
〈一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる。〉